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女性への暴力に声を上げること—「誰が私たちを殺しているのか?」を読む

テキスト・編集:大重祐紀 + 福島淳

私たちPolitical Feelings Collectiveの翻訳出版プロジェクト に関連して、コンバヒーリバー・コレクティヴ(CRC)に関する記事をお届けします。CRCは1974年に発表された「ブラックフェミニスト宣言」とも呼ばれる「コンバヒーリバー・コレクティヴ・ステートメント」でその名を広く知られ、このステートメントは私たちが現在翻訳中の『How We Get Free(私たちはいかに自由を得るか)』にも収録されます。それでは、そのようなステートメントを発表したCRCは、ブラックフェミニストのコレクティヴとして、実際にどのような活動をしていたのか? CRCの具体的な活動については、名高いステートメントに比してあまり知られていません。ステートメントがどのような活動の中で生み出されてきたのか、あるいは、ステートメントが発表された後に、どのような実践が行われていたのか。その一端について知る機会の第一弾として、この記事は執筆されました。


今回の記事では、CRCがコレクティヴとして発表したもう一つの重要なテキストについてご紹介することになります。


 

コンバヒーリバー・コレクティヴはボストンを拠点としたブラックフェミニストのグループでした。その活動期間は1973年〜80年です。コンバヒーがコレクティヴとしての活動を終える一年前の1979年、ボストンで、黒人女性が連続して殺される事件が起こります。CRCはこの殺人事件に対する、コミュニティ運動(コミュニティでのアクティヴィズム)を展開しました。


この79年/ボストンでの事件、それに対するCRCの活動を取り上げた資料として、「誰が私たちを殺しているのか?(Who’s Killing Us?)」という記事があります。事件から9年が経った1988年に、レズビアン・フェミニストのライターでアクティヴィストであるジェイミー・M. グラントによって執筆され、ボストンに隣接する都市ケンブリッジを拠点に刊行されていた月刊のフェミニスト新聞『ソジャーナ』に2回に分けて掲載されたものです(1988年6月号、7月号)。


記事では、立て続けに女性(10代後半の少女も複数含む)が殺されていく危機的状況の中、恐怖や怒りをいだきながらも地域の女性たちが立ち上がり行動していく姿が描かれています。記事の前編では、事件のあらましの記述に続いて、CRCがこの事件を受けて展開した活動が、CRCの設立メンバーの一人であるバーバラ・スミスが当時を振り返ったインタビューを引きつつ、大きく取り上げられています。以下では、この前編の内容についてご紹介します。



79年/ボストン 地域で多発する黒人女性の殺人事件

1979年の1月〜5月にかけて、ボストンのロクスベリー地区(Roxbury)やドーチェスター地区(Dorchester)などで女性が殺害される事件が多発し、被害者の数は13人にも上りました。そのうち12人は黒人女性で、1人は白人女性でした。





追悼マーチでの叫び 殺しているのは誰か/殺されている「私たち」とは誰なのか

被害者の数が6人を数えた後の4月1日には、追悼マーチが行われています。(その時点で)殺された6人の黒人女性のために、1500人もの人々が集まり街頭を歩きました。 マーチはボストンのサウス・エンド地区(South End)のハリエット・タブマン・ハウスからスタートしました。そして、5番目の被害者ダリル・アン・ハーゲットの住んでいた、そしてその遺体が発見された場所であるアパートの前で、最初に立ち止まります。ハーゲットのおば、 サラ・スモールが群衆の前へと立ち、次のように叫びました。「誰が私たちを殺しているのか?」



記事の著者グラントは、この叫びであり問いかけを象徴的に掲げ、ボストンに暮らす立場の異なる人々がそれぞれどのようにこの事件を理解していたかを、差しあたり図式的に記述していきます。人種による居住区の分離が顕著なボストンにおいて、殺人事件の主な現場となったロクスベリーやドーチェスターは黒人の人々が多く住む地域でした。自分たちのまさに暮らす場で次々と殺人が起こっていくのを経験していた黒人コミュニティの人々にとって、「私たち」とは「黒人女性」、広い意味では「黒人」を意味していました。


ボストンでは1975年に、公立学校における生徒の人種的不均衡の是正を目的として(人種隔離教育の撤廃は公民権運動の重要な一つの目標でした)、居住区をこえたバス通学によって黒人生徒と白人生徒を均等に配属させようとする強引な政策が実施され、結果として人種間の緊張を高めました*黒人コミュニティの人々の多くはこの紛争の、またボストンの警察隊からのいやます非人間的な扱いの経験者たちであり、「ボストンの白人の多くは、あからさまな人種差別的暴力を容易に犯しかねないと痛感していた」といいます。


*注:上杉忍『アメリカ黒人の歴史』(中公新書、2013)には、ボストンでのバス通学政策について「白人大衆が実力で阻止行動に出て全国的注目を集めた」と記されています。(p.156)


こうした緊張関係を背景として、黒人コミュニティはこの79年に多発した殺人事件について、「白人」が「私たち黒人」を殺していると理解したのでした。

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一方で警察(マーチでは行進の脇を歩き、徒歩での交通整理や、馬上からの秩序維持を行なっていた)は、この事件を黒人コミュニティの内部で起きた黒人同士の暴力事件と推定しており、犯人は被害者の知り合いであろうと考えていました。警察は、それぞれの殺人事件は「無関係」であると強調した。つまりこれは連続殺人事件ではない、と。ほとんどが白人であり圧倒的に男性が多いボストンの警察にとっては、サラ・スモールの叫びにおける「私たち」は、事実上「彼女ら」でした。


また、マーチの後方に加わり歩いていた白人フェミニストたちの多くにとって、「私たち」とは「女性」でした。白人フェミニストたちの深い悲しみは、女性に対する暴力が容認され、ときに賞賛される文化の中で、女性の生存がいかに脆弱なものであるかということに向けられていたのです。そして、家庭内暴力やレイプの被害者の支援者、またボストン中の地域における女性の安全を求めるアクティヴィストとしての経験は、白人フェミニストたちに、「誰」とは「男性」で、白人や黒人の、おそらく被害者が面識のあった男性だろうと考えさせました。彼女たちは、警察とは違い、これらの殺人事件にはつながりがあると考えます。そのつながりの核心にあるのは、女性の生を軽視する性差別(セクシズム)です。



ブラックフェミニストは殺人事件をどう捉えたか?

それでは、マーチの群衆のなかに散らばって歩いていたブラックフェミニストたちはどうだったか? 彼女たちはまた別の視点を持っていました。フェミニストの黒人女性たちは事件について、黒人コミュニティ、白人フェミニストと部分的にその理解を共有しながらも、両者の理解において意識されていない現実があると感じていました。そして、単に人種差別によるだけでない、単に性差別だけにもよるのでない、その双方によって引き起こされたものとして、一連の殺人事件を理解する分析をおこなっていくことになります。


著者グラントはそれを次のようにまとめています。

ブラックフェミニストたちは、反人種差別主義者と白人フェミニスト、そのいずれの分析にも批判的な層(レイヤー)を加えている。というのも、[一連の殺人事件が起こる社会的背景となった文化的な]その価値体系は性差別のポリティクスと人種差別のポリティクスの双方にすっかり染められていることを、ブラックフェミニストたちは認識していたからだ。


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以上のように、1979年にボストンで起こった、黒人女性を中心に女性が連続して殺されていく危機的事態に対し、各々の立場から応答したアクターとして、黒人コミュニティ、警察、白人フェミニスト、そしてブラックフェミニストが挙げられました。グラントが具体的に全2回の記事で、その人々の証言を引きながら、活動や、考え、思いについて記述し、取り上げているのは、黒人コミュニティについては、その中から出現したCRISISというコミュニティ組織。ブラックフェミニストについては、コンバヒーリバー・コレクティヴ(CRC)です。また、事件に対する対応(先どりして言えば、まともな対応のなさ)については、警察とともにマスメディアも問題にされます。 CRCについて調べている私たちにとってポイントとなるのは、この記事が全体として、CRCの人々が黒人コミュニティや白人フェミニストたちとの複雑な関わりの中で、自分たちの思考や実践を築きあげてきたことが感じ取れる内容となっていることです。


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「俺たちが女を守る.女は家にいるべきだ」

さて、1979年4月1日の追悼マーチに戻りましょう。このマーチの際に行われた集会でのことです。その群衆のなかにいたCRCのバーバラ・スミスは激しい憤りを感じていました。バーバラはこの時のことを振り返り、次のように語っています。


その場で壇上に立ったのはほとんどが黒人男性でした。彼らは〈俺たちが女たちを守る必要がある。女たちは家にいるべきだ〉などと語っていたのです。そこでは、性の政治(sexual politics)や性暴力については何も語られなかった。人種に関わる犯罪(racial crime)であるという話がすべてでした。では、被害者たちが殺されたのが単に人種のためなのだとしたら、なぜ殺されたのは全員女性なのでしょうか? (*強調は引用者)



コンバヒーによるパンフレットの制作

マーチから帰宅したバーバラは(彼女のアパートがあったのは渦中のロクスベリーでした)、その夜にうちに事件についての見解をまとめたパンフレットの制作に取りかかりました。彼女はその文章を黒人コミュニティに届きやすく、理解されやすい形で書くよう努めたと語っています。バーバラは小さなタイプライターでそれをタイプし、翌朝にはおおむね完成した。そしてコレクティヴの他のメンバーに連絡し、電話口でそれを読み上げ、聞いてもらった。パンフレットは、コレクティヴとして、この事件・殺人に対して考えを示さなければならないと、制作されたのです。


CRCによるパンフレット『6人の黒人女性―なぜ彼女たちは死ななければいけなかったのか(Six Black women:Why did they die?)』は、そのタイトルにサラ・スモールのあの叫び=問いかけ「誰が私たちを殺しているのか」を反響させつつ、「具体的な分析と生き延びるための方策を提示する」ものとなっています。



黒人コミュニティにCRCのパンフレットが与えたインパクト

パンフレットは当初2000部刷られました。その分は即座にはけてしまい、バーバラたちはそれから何度も印刷所に足を運ぶことを繰り返すことになります(その間に、犠牲者の数が増えるたび、タイトルの数字が書き換えられる)。最終的には、英語版、スペイン語版あわせて4万部が印刷された(*注:資料によっては「少なくとも3万部」とも)。これだけ広くいきわたることになったパンフレットについて、「それは事件について作られた最初の印刷物で、人々が何をすればいいのか、また何を感じたらいいのかを考えるうえで助けになってくれるものだった」とバーバラは振り返っています。


CRCのメンバーたちは、カミングアウトしたレズビアンで、かつフェミニストでした。そのために、それまでは黒人コミュニティの中で広く知られ、受け入れられていたグループではなかったと、バーバラは言います。それが、このパンフレットはコミュニティにたいへん好意的な反応を引きおこし、コレクティヴは、暴力に対する抵抗運動に取り組んでいた黒人のグループ/フェミニストのグループの双方から、重要な団体とみなされるようになったというのです。


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次回以降、この記事の後編として、CRCがこの殺人事件への抗議運動が展開していく中で、事件への応答として生まれた(フェミニストを自認しない)黒人女性のコミュニティ組織CRSISや、白人フェミニスト団体などをつなぐ架け橋となったことについて取り上げます。また、今回の記事で取り上げたパンフレットについて紹介する記事も現在準備中です。







 

◆ 今回、その前半について取り上げた雑誌記事 Jaime M. Grant. 1988. "Who’s Killing Us?" は、下記リンクで公開されています。



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